文明開化の女性政策 <政治・女性・明治>

明治国家の女性政策の基本は女性を近代国家の国民として組織することであった。

まず四民平等のたてまえで、士農工商間の結婚・職業の自由を認めた。

1872年には学制を発布、男女等しく教育を受けることとした。

それに先だち津田梅子ら5人の少女を留学生としてアメリカに派遣、また官立女学校を開設し女子教育の振興を図った。

これは次代の国民の育成にとって母性の力が大きいことに着目したためで、それまでにはない女性観であった。

その反面、1871年制定の戸籍制度では戸主の下にすべての国民を把握し、戸主が納税・兵役・教育の義務を負う一方、家族に対しては大きな権限をもった。

家族の結婚・職業選択には戸主の許可を必要とした。

戸籍の記載は尊属・男子を優先し、妾を妻に次いで家族として記載するなど家理念の強いものであった。

また72年には娼妓解放令が発布されたが、これは人身売買による娼妓の解放を目的としたもので公娼制度そのものの廃止を意味しなかった。

公娼は自由契約の名目で存続し、逆にその数は増加を続けた。

このような政策に対して福沢諭吉・森有礼など啓蒙思想家たちは『明六雑誌』などを拠点に、男女同等、一夫一婦制、廃妾・廃娼の主張を展開した。

啓蒙思想家たちの主張は1880年代の自由民権運動に引き継がれ、楠瀬喜多・岸田俊子・景山英子らが天賦人権・男女同権を主張、高知・岡山・神奈川などに女性の民権結社も生まれた。

しかし、1889年天皇主権の帝国憲法制定、翌年の帝国議会の発足と同時に集会および政社法が公布され、女性の政治活動は禁止された。

これは1900年治安警察法に引き継がれ、女性は長く政治から排除された。
update:2010年02月23日